2018年5月23日水曜日

立川左談次師匠のこと

左談次師匠のことを今更書くのもどうかと思うが、加藤健一事務所「ドレッサー」で
老座長が「死んだ後も私の事を皆に伝えておくれ。役者は記憶の中でしか生きられない」
と訴えるシーンを思い出し、書き残しておくことにした。
もちろん左談次師匠は、こんな野暮な台詞は死んでも吐かないだろうけれど。

志ら乃さんが二つ目後半の頃に、立川流の落語会へ足繁く通っていた。
(ちなみにその頃、こしらさんはほぼ不動院寄席でしか遭遇できないレアポケモンだった)
上野広小路亭と日暮里サニーホールが多かったかな。
平日夜席ならば、いわゆる「つばなれ」ギリギリの人数であることも少なくない。

どんな時でも左談次師匠、通称さだやんは雲のように軽やかに
あの笑顔で高座に上がっていた。
では穏やかな人なのかと思いきや、毒舌は滅法鋭い。
しかし毒を吐いた直後にニカッと笑って冗談を言う素敵なおじさんで、
自他共に認める面倒くさがりであり、働くのが嫌い。
お酒にまつわるエピソードに事欠かない。
ネタは浮世床、町内の若い衆、読書日記(高座で人の本につっこみを入れる)に
当たる事が多かったように思う。
何度同じネタを聞いてもあの軽い調子がくせになる楽しさで、出演者の中に
名前があると「あっ、さだやんも出る!」と嬉しかった。
さだやんの大ネタを聞いてみたいからとトリの日に行ってみたけれど、マクラが
長くネタはいつものやつで降りちゃった。

じゃあ独演会に行けばいいじゃないか、と思うかもしれない。
しかしそうは問屋が卸さない。
独演会なんて準備も稽古も必要な代物を、面倒くさがりのさだやんが
やるわけがないのだ。
周りのファンや仲間がたきつけて、何年かに一度「はたらく!左談次の会」
という落語会が強制的に開催され(笑)、そこでは比較的大きな噺を聞く
ことができたらしい。

その後、ブラック門下から移籍されたお弟子さんを取り(現:佐平次さん)
お弟子さんの会に呼ばれるなどで高座も増え、観客から見ても
柔らかくなられた印象があったのだけれど、その頃には私が少し落語から
遠のいていたのでお見かけすることもなくなってしまった。

それから随分と経ち、若手中心で組まれている「渋谷らくご」の番組に
左談次師匠が出演するのを知った時には驚いた。
どういう経緯があったのかは知らない。しかし、こんなチャーミングな
おじいちゃんと若い人たちの出会いは素晴らしいものだ。
しかも驚くことに、私がかつてお目にかかれなかったネタを毎月のようにかけている。
その後、喉頭がんを公表しつつも、毎月のように渋谷らくごに出演されていた。
ユーロライブのさだやんは、客席の若いエネルギーと素直な反応に
呼応するように、充実したものだったように見えた。

渋谷らくごに積極的に出演されていた喜多八師匠も鬼籍に入られたが、
左談次師匠とは少し事情が違う。
喜多八師匠は、落語界という狭い世界の中ではあるが、落語協会という
メジャー団体の中ですでに注目されていた。
対して、左談次師匠は渋谷らくごという媒介がなければ、落語初心者が
出会うのは難しい存在だった。

なので、落語家生活五十周年記念の興行は、シブラクの中でも
一二を争ういい仕事だったと思っている。
照れ屋だから決して自分から企画はしなかっただろう。
周りから祝われるのは幸せなことだし、師匠である立川談志も「芸人は
囃されたら踊れ」というタイプの方だったので、ご本人にもきっと喜んでいたはず。

何もかも過去形で書かねばならないのが本当に残念だ。
うなじに扇子を挿し、「あの町この町」の出囃子にのってふわりふわりと
高座にあがる姿が粋だったなぁ。