2019年3月25日月曜日

いとうせいこう「今夜、笑いの数を数えましょう」

いとうせいこうさんが下北沢B&Bで開催した笑いに関する対談ライブが本になった。
この「今夜、笑いの数を数えましょう」がすこぶる面白い。

私の趣味遍歴は演劇→落語→お笑いという順番なので、お笑いライブに通い
始めた頃はずっと舞台上にも客席にも違和感を感じていた。
舞台で笑いを表現するという意味では同じなのに、なぜこんなに違うんだろう。
特にコントは笑いの多い演劇と近いはずなのに。
いつの間にかお笑いライブに通う本数が演劇を超えすっかり慣れてしまった
が、それでもまだ折に触れてこの違いは何なのだろうと考える事がある。
そんな自分にぴったりの1冊だった。

★倉本美津留
『ダウンタウン、ラジカル・ガジベリビンバ・システムと東西の笑い、テレビの笑い、ジャルジャル』
(↑このキーワードは私が勝手に書いた、もしタグをつけるならばこんな感じかなと考えたもの)
ダウンタウンを始めとする関西のお笑いを通らずに育った自分にとっては
意識として遠い人。
私がお金を払って初めて触れた西のお笑い文化は関西の小劇場かもしれない。
でも、たぶん関西という地域の中でお笑いも落語も小劇場も繋がっていたのだろう。
ボケとツッコミについての記述が多く、どういう状況で笑いが起きやすいかの考察も。
最後にはジャルジャルの「超コント」について。
笑いの考察をする人たちがジャルジャルを好きな理由がわかる気がする。

★ケラリーノ・サンドロヴィッチ
『モンティパイソン、マルクス兄弟、ラジカル・ガジベリビンバ・システム、
シティボーイズ、演劇、別役実、映像と舞台』
空飛ぶ雲の上団五郎一座見に行った時のことを思い出した。
三谷幸喜&YOU&池谷のぶえでやった「キュリー夫人がラジウムを
ゴミ捨て場に廃棄してご近所トラブルになるコント」が好きだった。
文芸部の井上ひさしさんが鬼籍に入られ別役さんもご闘病中という現状を
見ても、上の世代の偉大な方々と仕事をするならば少しでも早く動かな
きゃならない。
それにしても、田中ブルースカイ→ブルー&スカイ→ブルースカイ(
でも本名は後藤)というのは、マヂカルラブリー村上さんみたいだ。

ケラさんの章で多く語られるのは演出家から見た役者の生む笑いと芸人の生む笑い。
基本的にお笑いのはお客さんの反応が全て。
受ける物が正解という世界。そこは演劇と違う。
この章は別役実戯曲についてのトークも多い。
私が別役実作品を生で見て、声を出してゲラゲラ笑ったのはケラ演出「病気」だけ。
生半可な演劇ファンなもので、別役作品を見に行くのはなかなかの試練でもある。
会話のやりとりがシンプルなので、演出や役者の力量が如実に出るのだ。
申し訳ないと思いつつ何度客席でウトウトしてしまったことか。
それでも理解したい、挑戦したいと劇場に足を運ばせる力が別役実脚本にはある。

★バカリズム
『コンビとピン、大喜利、ダメなものを消していく作業、マセキ芸能者、愛嬌と芸人』
芸人活動がメインの人はバカリズムだけなので、演者としてのネタ作りが
書かれているこの章はお笑い好きな人が読むと特に興味深いかもしれない。
「コンビはお互いのやりとりしかないのが平面的。トリオだと立体的に
なる。でも、ピンは立体的」という話が印象に残る。
冗談手帖の街裏ぴんくゲスト回で、Aマッソが「漫才やコントはツッコミが
あるのでどこかで止めてしまうが、漫談はどこまでも自由に行くことができ
る」と語っていたのを思い出した。

私は「ボケ・ツッコミをやっても結局西の人に勝てない。では東京の笑いはどう戦うか。」
という部分を読み、なぜか関西のコントについて考えてしまった。
東京のコントがストーリーや展開を重視しているのに対し、関西のコントは
発想一発!という奇想天外な愉快なものが多いように思えて不思議だった。
もしかして関西では漫才の存在があまりにも大きく、漫才と同じことを
やっても勝てない、コントでどう戦うかと徹底的に考えられた結果なのだろうか。

★枡野浩一
『観客としての目線、演劇とお笑いライブ、テアトロコント、歌人、SMA』
今のお笑いを一番見ているのは枡野くんだから、とせいこうさんに呼ばれた枡野さん。
枡野さんは以前お笑いコンビを組んでSMAに所属し、6つに分かれている事務所ライブ
も全て見ていた。
他事務所の芸人の名前もよく挙げていてやさしいズ、マッハスピード豪速球、ゾフィーとか。
演劇も五反田団、明日のアー、ナカゴー、玉田企画など。
劇団と芸人の名前が一番出てくるのがこの章。

他の章が笑いに関する講義を聞いているような気分になるのに比べ
きたろうさんは除く)この章は一番観客の目線に近く読みやすい。
しかし、そんな演者でも観客でもある枡野さんの本職は「歌人」であり「全ては詩歌
のためである」という点が何より面白い。
歌人の視点を通したお笑いの話がとても新鮮だ。
シリアスで哀しいことは本人から滲み出るとちょっと笑えない、とか。
弱者やマイノリティを笑いの題材に選ぶことについても語られている。

演劇の観客とお笑いライブの観客はなかなか交わらないという印象が私にある。
もちろん東京03を見る演劇ファンもいるし、新感線を見るお笑いファンもいる。
両方見ている人も沢山いるけれど、間にえいやっ!と乗り越えなければ
ならない壁が1枚あるように見える。
もし今、私があの頃の小劇場ファンのままだったら、演劇界からの風の噂で
シソンヌ単独と劇団かもめんたるには行く機会があっても、ライス単独まで
は届かない気がする。
さすがに演劇ファンが10組も20組も芸人の出るお笑いライブに行くのは
ハードルが高いが、例えばルミネやシアターモリエールあたりで行われる
単独ライブにはもう少し足を運んでもいいんじゃないかなと思う。

★宮沢章夫
『ラジカル・ガジベリビンバ・システム、シティボーイズ、日本の喜劇人、
ケンイ・コスギ(権威・濃すぎ)、ユーモアとエッセイ』
私がシティボーイズを初めて見た時はすでに作家が三木聡さんだった。
本から宮沢さんとの関係を後追いで知り、遊園地再生事業団を見に行くと
淡々とした芝居で面食らった記憶がある。
きっとこの人は大笑いするタイプの舞台を作るのをやめちゃったんだな、と勝手に
納得してしばらく忘れていたところ、偶然読んだエッセイ集「牛への道」の
面白さにおののく。
そんな出会いだった。

当然この章ではラジカル、シティボーイズの事が深く語られる。
ケンイ・コスギ(権威・濃すぎ)はみうらじゅんさんのダジャレ造語。
でも、作る側の人に権威がつきすぎてしまうと作品に対して笑いより
感心が生まれてしまう、なんだかな~という状況を示すのにとても便利な言葉だ。
「僕が二十歳の時に六十代の演劇人を知らなかった。別役さんだって当時は
四十代くらいだし」という話が出ていたので、宮沢さんが二十歳の頃の
六十代演劇人とはどのあたりだろう?と調べたところ、たぶん芥川比呂志
あたりですよ。そりゃあね。
シティボーイズのことを考えているのはきたろうさん、当時の新劇・喜劇人
の話などから次の章にうまく繋がることになる。

★きたろう
『ラジカル・ガジベリビンバ・システム、シティボーイズ、常に半信半疑、
師匠と弟子』
上記の誰との対談でもせいこうさんは師匠であるきたろうさんの話題を出していた。
皆さんお待ちかねの師弟対談…ではあるのだが、読めばわかる通り話が
あっちに行ったりこっちに行ったり。
いや、これでも物凄く読みやすくなっているんだよ!

B&Bで開催されたトークライブに参加した私が観たのは、甥っこ
(せいこう)が酔っ払いおじさん(きたろう)をなだめたりすかしたり
持ち上げたり突っ込んだり、とにかくありとあらゆる手で話を聞き出そうと
する光景だったのだから。
すでに酔っ払っているかのようにテキトーでふわふわ話すきたろうさんが、
フッと真面目になる。
その一瞬を捕まえ続ける感じ。
せいこうさんはラジカル~シティボーイズの歴史を、きちんとした形で
残そうとしてくれているのだろうか。

俺のこういう甘えた芸を観客の半分は許してくれて半分は許してくれない。
そこで半分許さない客がいることを俺が知っているのが凄いんだよ!byきたろう
うーん、深いような気がしないでもない。
名言「思想のない演劇よりもそそうの無いコント」はきたろうさんと
斉木さんどちらの発言だったのか。
この本の中では斉木さんになっていたけれど、実際にはせいこうさんに
「そうだったの?これすごく大事な証言だよ」と確認されて「そうだったよ
うな気がするんだけどなー」と首を捻っていたと思う。

きたろうさんの演劇青年な部分に触れられたのは興味深い。
本ではカットされていたが、きたろうさんがアラバール「戦場のピクニック」
のタイトルを挙げてせいこうさんがキョトンとしていた。
戦場のピクニックは蜷川幸雄逝去後に上演されたNINAGAWAスタジオ
「待つ」の中で、私が一番印象深く感じた短編作品だ。

シティボーイズもうやらないの?もう俺をコントに出してくれないの?と
柔らかく訴えるせいこうさんがまるで子供のようで。
いとう君はいつも俺達を助けてくれると感謝しながらも、シティボーイズは
かっこいいまま終わらせたいというきたろうさんの気持ちを、我々ファンは
尊重するべきなのだろうね。
一番最初の「笑いを語るなんてかっこ悪いよ」という発言からも感じる
きたろうさんの美学。