普段、よく足を運ぶお笑いライブを運営しているK-PROの代表・児島さん。
来年の10周年を前に、今までの活動を振り返るトークショーが開催されました。
ゲストはスパローズ、ジンカーズ、三四郎、浜口浜村、磁石永沢、三拍子高倉、
ダブルブッキング黒田、エルシャラカーニ清和、エレファントジョン加藤。
そして森田さんが「鯨釣ってきたぞーー!」と呼ばれていないはずのくじらさんを
舞台に引っ張りあげる。捕鯨・・・!
現在31歳の児島さんが経営するK-PROが来年10周年ということは、立ち上げた頃は
21歳?!一体どういう経緯なのだろう?
そんな疑問からインタビューの掲載されている雑誌「ピクトアップ」を読み、ますます興味を
持ったので今回思い切って参戦してみることに。
いや~お笑いに対する情熱と愛とど根性が出てくる出てくる。
高校生の頃からライブの手伝いに奔走していたため、K-PROを作った頃にはかなり裏も
表も知るようになり知識もあった。
高校の頃から~と言っても、普通の高校生がする軽いバイトのような働き方じゃない。
昼は高校・夜はライブ手伝いに全ての時間を捧げるために実家を出て(!)
毎日のようにお笑いライブを探しては会場に飛び込み、お手伝いさせて下さいと直談判してスタッフとしての経験を積んでいった。
もちろんボランティアのため、お金は一銭も貰えない。
そんな生活を5~6年続ければ、そりゃあ年齢なんて関係なく一人前のプロになるわ!
現在、K-PROには20名ほどのスタッフが働いている。
多分お笑いが好きなので、という理由で志望する方が多いのだろうけれど、採用に
関してはかなり厳しく見ているとのこと。
芸人と個人的な関わりを持たない、ブログ・ツイッター・SNSなどもNG。
芸人の見えるところで飲食は禁止。携帯・スマホも同様。
女性であれば髪を染めてはいけない、派手な服装・ピアスは駄目など。
単に○○さんのファンです、お笑いライブ大好きですという理由で入ったら
もう出待ちもプレゼントもできないし、K-PROはライブ数が多いので
そもそもその好きな芸人の出ている他のライブを観にいくことも叶わない。
特定の芸人が好き、では駄目。
「お笑い全体」が好きじゃなければウチでは勤まりませんよ、ということでしょう。
そんな自分にも身内にも厳しい児島さんは、現状維持を良しとしないチャレンジ精神がまた凄い。
数々のライブを軌道に乗せ、新宿Fuから客席数の多い北沢タウンホールに、行列の先頭を
移す時は本当に怖かったけれど、K-PROをより大くしていくためには恐れずに前に
進まなければならないと決意したとのこと。
さらに思いは西へも飛ぶ。
例え新幹線代で大赤字になっても、お笑いに携わっているならば大阪で勝負しなければ
ならない、と何度も大阪でライブを行った。
東京で成功しているならばいいじゃないか、で終わらずに。
10代の頃から全国各地にお笑い好きの文通相手を作り、東京では見られない
テレビやラジオのビデオ&テープを交換していたという児島さん。
(マニアだから、自分の知らないお笑いがあるのが我慢できなかったそうな)
きっと関西の面白いテレビ・ラジオ番組を通じて、東京にいながらも「大阪は笑いの本場だ。
ここで認められるようになりたい」という意識が育っていたんだろうなあ。
何度か悪い大人に騙されまして~なんて、なかなか大変そうな事件も語っていたけれど、その件で良い大人に叱られることにより、自分の中で大切な教訓を得たり。
失敗もきちんと成長の糧にしていたご様子。
いつでも周りの方々に助けられているんです、と嬉しそうに話す。
例えば劇場関係者。
劇場を借りる契約には、いかなる自然災害があっても返金はしない条項が入っているため、
3.11の震災後にかなりの赤字を背負った児島さん。
しかし、バイタス系列の劇場としもきた空間リバティの経営者さんは、普段から芸人の苦労が
わかっているので、キャンセル料を免除してくれた。
とても助かったし、今でも心から恩義を感じているとのこと。
K-PROライブが、これらの劇場に集中している理由の1つでもあるのでしょうね。
そしてフォークダンスDE成子坂の故・村田渚さん。
ボキャブラ世代の児島さんにとっては憧れの人で、最初のオファーは事務所に
断わられたけれど、本人が引き受けてライブに出てくれてからの付き合い。
児島さん以上にお笑いに対して熱い方で、オンバトに落ちたと夜中に酔っ払って電話を
かけてきたり、突然呼び出されて大喜利を12時間やったこともあった。
2人でこれからのお笑い界をどうすればいいのか、お前はどうしていくつもりなのか!と語り合っていた。
清和さん 「当時の若手はみんな村田さんに影響を受けていたよ。
俺も憧れてたし、流れ星なんてもっと・・・なぜか二組とも全然違う芸風になったけどな!」
その村田さんは2006年に35歳の若さで急逝してしまう。
児島さんは三重で行われた葬儀にも参列し、しばらくは毎日毎日泣いていた、と。
当時のブログにも記されていました↓
「お笑いライブ制作」主催者雑記:芸人・村田渚さんを偲ぶ会
お笑いに興味がなかった私でもボキャブラは見ていました。
とにかく大ブームでしたから。
今ではフォークダンスDE成子坂はかろうじて名前だけ覚えている存在だったので、
こんなにお笑い界に影響力のあった方だったのか、と今回調べて初めて知りました。
村田さんへ哀悼を捧げるブログが数多く残る中、とりわけバイきんぐ小峠さんの
文章が胸に迫ります。
見ル前ニ跳ベ:村田渚さん
ライブの最後に将来の展望を尋ねられ、芸人さんがネタだけで生活できるようになれば
どんなに幸せなことか・・・そんな世の中になれば・・・と、心の底から語る彼女。
そのお笑いへの愛の深さと大きさにひれ伏す思いです。
K-PROで劇場を持つべきだよ、という意見も出ていました。
そういう話を持ちかけられることも実際あるけれど、過去に悪い大人に騙された経験から慎重になっているそうです。
「最近、私を“気菜ちゃん”と呼んでくれる人が少なくなってしまったんですよ」と、ちょっと
残念そうな顔をする児島さん。
がむしゃらに頑張る大のお笑いマニアの女の子が、今では東京のお笑いライブを牽引する会社の代表に。
来年の10周年に向けて、これから色々なイベントを企画中だそうです。
きっと豪華になるであろうライブになるべく足を運ぶことで、観客として十周年をお祝い
したいと思います。
チケット代、稼がなくちゃね・・・
(*)2014年ジンカーズライブ「SERVE」の楽日に開催された、
馬場さん&K-PRO児島さんのトークライブ記事はこちらに↓
ジンカーズ「SERVE」